マリー・アントワネットと漆器
2011年5月30日
宇佐美 保
NHKのBS103で、2011年5月10日に放送された番組「知られざる在外秘宝」に感銘しましたので、その一部を紹介させて頂きます。
17〜18世紀、中国趣味に溢れるヨーロッパの王侯貴族の間では、特別な部屋を作り、そこに競い合って集めた海の美術品を飾りました。 その代表は中国磁器(China)と共に日本の漆器(Japan)でした。 この状況で、東インド会社が日本から輸入する漆器の図柄には中国的な文様が溢れていました。 オーストリアの国母と謳われた女帝マリア・テレジアも、居城のシェーンンブル宮殿の一室を漆の間に仕立て、“ダイヤより漆が好き”と言うほどに漆器に魅了されていました。 勿論、テレジアも中国風文様の漆器を集めてはいましたが、特別なコレクションがありました。 テレジアの末娘のマリー・アントワネットは政略結婚で、1770年5月、14歳の時フランスのブルボン家に嫁ぎ、25歳の時、母テレジアを亡くなります。 この時、母の漆器の特別コレクションである逸品がマリー・アントワネットに届きます。 このコレクションは、当時の一般的な輸入品の中国的な文様と異なり、例えば「笈、蔦、笠」等を配し「伊勢物語」の一節を暗示するといった文様で、江戸時代の日本の教養豊かな上流階級向けに造られた技と贅を尽くした最高の名品ばかりでした。 喜んだ、マリー・アントワネットは、このコレクションが引き立つように、壁を白くしたりして黄金の小部屋を改装までし、自らも手だてを尽くしてコレクションを80点以上に増やしました。 ところが、1789年7月14日フランス革命勃発するや、アントワネットは、美術商をベルサイユ宮殿に呼び寄せ、母からのコレクションを守る為、漆器を丁寧に梱包し、安全な場所に保管する様に命じました。 (その際の、「美術商への寄託品目録(1789年10月10日付け)」が残っています) そして、悲しくもアントワネットは、1793年37歳の生涯を断頭台によって立たれてしまいます。 ベルサイユ宮殿は革命に翻弄され、王家に伝わる数多くの美術品は奪われ、アントワネットが漆器を飾る為にあつらえてテーブルも散逸し、全てのものが売り払われてしまったのです。 ところが何と、このアントワネットのコレクションは、1794年(美術商の手から?)ベルサイユ宮殿に戻って来たのだそうです。 そして、その後、アントワネットのコレクションは、永遠とフランス国のコレクションとなったとの事です。 このアントワネットの漆器コレクションに対する、室瀬和美氏(漆芸家・人間国宝)の次のようなコメントにも感銘を受けました。 これ(誰がつくったか分からない)が、日本文化なのだと思います。 今、わりと、誰誰のつくったものだから素晴らしいと、名前の方が先行してしまった。 ものが素晴らしいかどうかが、一寸ズレている。 ところが、マリー・アントワネットのコレクション等は、誰がつくったかは分からない、だけど素晴らしいんだ。 そのものが発信する力、これが本当の力なんじゃないかな。 要するに人の名前が発信するのではなく、出来たもの、そのものに力があったから、あの人たち(アントワネットたち)は、そのエネルギーを受け、大事に400年守って来たと思う。 |
この室瀬和美氏(漆芸家・人間国宝)のコメント“マリー・アントワネットのコレクション等は、誰がつくったかは分からない、だけど素晴らしいんだ”には感銘を受けます。
私達日本人は、海外に行っても、(まあ国内でも)ブランド品を買いあさります。
私達は、「ブランド」に囚われることなく、「自分の目で見て素晴らしいと感じた品」を手にすべきではないでしょうか!?
そうすれば、埋もれている制作会社、制作者が世に出てくる事が可能となってくると存じます。
それに、高価な漆器などの伝統製品は、買い手がなくてはその技術は絶えてしまいます。
日本のお金持ちは「ノーブレス・オブリージ」の一環としても、高価な伝統技術を駆使した作品を購入して頂きたいものです。
(補足:漆器が海外にわたった背景)
近年、スペイン各地の教会修道院などの23か所で、70点の16世紀(大航海時代)の漆器が発見されています。 この背景は、織田信長の居城(安土城)に招き入れられたスペイン宣教師たちが、床から柱まで漆で塗り込められた空間に、又、漆を用いた金色に輝く食器などに、圧倒され、漆の虜となり、彼らが布教に用いる道具を漆職人に造らせ、又、帰国の際には、今スペイン各地の教会などに残る「聖遺物」の入れ物としての漆器を発注して、持ち帰ったのだそうです。 更に、縄文時代からの歴史を有する漆器に関して、NHKの番組は教えてくれました。 桃山時代前は、漆器は全て宮中、貴族の特別注文(手箱、硯箱、経典入れ等)であって、1つに1年以上かけて作られていました。 ところが戦国時代、戦国武将たちは武力だけでなく、兜、甲冑等武具の美しさを競い、きらびやかで、目を引く蒔絵の需要が急速に増えて行ったが、1品1年では需要を賄いきれません。 そこで、平蒔絵という新しい簡易的な手法が登場したのです。 この手法では、従来の10分の1の時間で完成できるのです。 即ち、この手法は、下書きも描かず直接文様を描き、漆との密着性の良い細かい金粉を用いて何度もの研ぎ出しも不要とするのです。 この手法に目を付けた豊臣秀吉は、居城の伏見城の部屋全体を絢爛たる平蒔絵で飾り立て訪れる人々を圧倒した。 (現在では、高台寺に移築されている) 秀吉個人が楽しむだけではなく、漆器の用途を更に広げ、調度品や食器を作らせ家臣に与え自分の力を誇示した。 |
と言った漆器の歴史があったそうです。